文  化 東京港区 中国語サークル 北京倶楽部

中国では、お盆ではなくて、清明節にお墓参りをして祖先を供養します。



清明扫墓


《清通礼》云:“岁,寒食及霜降节,拜扫圹茔,届期素服诣墓,具酒馔及芟剪草木之器,周胝封树,剪除荆草,故称扫墓。”并相传至今。

【清通礼】という昔の書物によると、毎年、寒色節と霜降節(清明節同様24節気の一つで、霜降節は10月23日もしくは24日)には祖先の墓参りをするもの、とあります。墓参りの際は、地味な服装で酒や草刈りの道具を携え祖先の墓に出向き、誠心誠意は掃除して清めます。この風習が現在まで伝わっています。)
清明節(qing ming jie)”というと、中国語文化圏の人たちがこぞって亡くなった人を供養する日。魏代(220~265年)、晋代(265~420年)には旧暦の3月3日と定められていましたが、近年、清明節の祭日を統一するために新暦(西暦)4月5日と改められました。みんな家族揃って祖先の墓へ行って線香を焚き供物を奉げて祖先を供養します。そこから「掃墓(sao mu)=お墓を清める日」とも呼ばれています。
また、清明の頃には気候も暖かくなって新緑が芽生え、人々は郊外にピクニックに出掛けたり凧揚げをしたりするので「
踏青節(ta qing jie)=若葉を踏んで散策する」ともいわれます。ちなみに、日本の沖縄では「シーミー」と発音して、中国の風習と同じように墓参りに行って墓前で親類が揃って食事を楽しむ風習があるんですって 墓参りだけでなく、ピクニックみたいな娯楽的な要素があるもの興味深い


清明節にどうして墓参りをするようになったの?
春秋時代(前770~前476年)の話です。(春秋時代の十二列国の一つ。ここでは265~420年の司馬炎の建てた晋とは違う)の公子、重耳が国を追われて亡命の途中、人気のない辺鄙な原野に迷い込み食糧が尽きてしまいます。彼は体力が消耗してもう立ち上がることもできません。従臣たちも四方に食べ物を求めましたが見つかりません。すると従臣の一人、介子推は、こっそり自分の太腿の肉をこそぎ取り煮込んでスープにして主君に食べさせました。
おかげで重耳は元気を取り戻し、晴れて19年後には帰国して君主の座に即位(晋文公)することになります。
でも、介子推はそれまで一致協力して苦難に耐えていた周囲の臣下が権勢争いを始めたのに嫌気がさし、重耳晋文公)のもとを離れ綿山に隠棲してしまいました。晋文公介子推を惜しんで自ら会いに行きます。ところが山は険しく樹木も密生していて、捜し当てるのは容易でありません。そこで臣下の誰かがこう進言。「綿山の三方から火を放てば、彼の方から出てくるに違いありません」。晋文公は「なるほど、そういう手もあるか」と臣下に命令して火を放つ…。

しかし綿山は炎に包まれ全山焼き尽くされたもののが、介子推は出てきません。
山火事の鎮火後、晋文公柳の古木の洞で母と抱き合って焼死している介子推を発見します。そして介子推の遺体を納棺する際に、介子推が柳の幹に血で書き残した遺言を見つけます。そこには
「割肉奉君尽丹心, 但愿主公常清明。……」
(我が肉を割いて君主に奉じたのはまさに忠誠心からに他なりません。ただ我、君主の常に清明なることを願う…。」
晋文公介子推の固い決意を見抜けなかった自分を悔やみ慟哭し、その柳の枝を一枝遺体に添えて納棺します。さらには綿山に彼の廟を立て、彼の命日この日一日を「寒食節」と定めて火の使用を禁じました。

翌年、晋文公介子推の慰霊に山を登ってくると、焼け枯れたはずのあの柳の老木が青々と復活しているではありませんか。これを見た晋文公はここに「清明節」と名づけ、これより「寒食節翌日を「清明節」と定めたそうです。

綿山は、現在の山西省中部の晋中市に属する県級介休市にあります。「介休」という地名は名は介子推の最期の地であったことにちなんでいるそうです。食事を作るのに火を使わない「寒食節」の習慣も同地では現在も脈々と守られているそうです。



清明節には、他にもさまざまな習慣があります。

柳を軒先に挿す
清明節には、軒先に柳の枝を挿す風習もあります。この風習は、上述の介子推が焼死した柳の古木が一年後に芽を吹き返したことに由来するという説や、生命力たくましい柳に鬼や悪霊を追い払う魔力があるためともいわれています。
俗话说:“有心栽花花不发,无心插柳柳成荫。”柳条插土就活,插到哪里,活到哪里,年年插柳,处处成阴。(よく「植えたくて植えた花は芽が出ないのに、何気なしに挿した柳の枝は根付いて夏には緑陰を作るほどに生長する」というが、生命力ある柳の枝は土に挿しただけちゃんと根付くものです。挿し木さえすれば、どこでも順応して活きぬく。毎年、柳を挿し木すれば、至るところ緑陰ができるでしょう。)
何だか、日本の節分に軒先に掲げる「ヒイラギと鰯の頭」の風習に似てますね ひょっとして、日本の節分行事って、中国の清明節をパクッたのかな

秋千(qiu qian)をこぐ
秋千(qiu qian)とはブランコのことです。ちなみに「ブランコを漕ぐ」は中国語で「秋千」(da qiu qian)。
気候が暖かくなり始める別名踏青節」とも呼ばれる清明節の頃、人々は屋外に出掛けピクニックなどを楽しみます。その一環で「ブランコ」遊びをするわけですね。
でも、実はこれにはそれなりの由来があるんです。古代、人類が高い樹木の上の果実などを手に入れるために作られた道具が「ブランコ」だったといわれています。最初はターザンがやっていたような、単なる縄状のものだったようです。唐代以降になると、この「ブランコ」遊びが宮中婦女子祝寿の行事になりました。現在の「清明節のブランコ遊び」はこの名残りです。

凧揚げ
同様に屋外では凧揚げを楽しみます。清明刮了墳上土、大風刮到四十五(清明節に大風が吹けば、45日間風が吹く)」という言葉もあるくらいですから、この季節は凧揚げにもってこい。昔はこの凧揚げ、「除病消灾(chu bing xiao zai)=病いや厄落とし」のために、自分の1年分の不幸な出来事を書いた凧を糸を切って風に流したといわれています。これも、何だか日本の「雛流し」の風習に似ています。雛祭りの起源も何だか中国の清明節に関わりありそうですね。

寒食節と合体した冷品
清明節の前日、寒食節と合わさって、清明節にも冷品を食べる風習が残っている地方、少なくはなりましたが、まだあります。各地で食品はいろいろですが、例えば上海では青団(qing tuan)を食べます。雀麦草の絞り汁と米を捏ねて作った皮に、小豆や棗餡を包んで葦の葉を敷いた蒸篭で蒸しあげたものです。火は通してありますが、一応事前に蒸しておいて当日は冷めたものを食べます。
これまた、日本の蓬餅(よもぎもち)や笹餅に似ています。中国文化をなぞっていくと、日本文化との係わりがさまざまな場面で顔を覗かせてくれるので、興味津々です