しばらく進むと小川のせせらぎが聞こえてくる。透き通るような液体は木々の影のせいだろう。ひやりと冷たく、伊月の指の間をくぐり抜けてゆく。

 伊月は妖精の言っていたことが合っていたと言うことと、遭難時の最低限である水の確保ができたことに安堵する。
 川のほとりにある大きめの石に腰掛けるとふうとため息をついた。

「全部夢だったらよかったのになー」

 寝転がって流れる雲を見つめる。いつもよりずっと濃い色の青は見ているとどこまでも落ちていくようだった。

 十分ほどそうやって休んでから、伊月はまた北に向かって歩き出す。川の岩場はでこぼこと歩きづらいものの、草木の間を歩くより危険のなさが精神的に楽だった。

 ただ、だからこその油断だったのだろう。
 土手から熊に似た怪物がすぐ近くに寄るまで、伊月は気づかなかったのだから。

「は、はは……、これ、死んだな……」

 ゆっくりと迫る怪物は伊月より遙かに大きく、体中に黒い楕円の模様があるのが目に止まる。手足は伊月の胴のように太く、凶暴そうなツメは岩に触れ、じゃり、じゃりと音を立てた。

 死んだふりをする、と言う話を良く聞くが、あのツメでは軽く嬲られるだけで悲鳴を上げてしまうだろう。はっきり言って、無理だ。

 それに、熊に限らずだが、ああいうどう猛な生き物は背中を向けると襲いかかってくる場合が多いらしい。つまり、逃げることもできそうにない。

 伊月は自分の荒い息の音を耳にしながら、その場で動けなくなってしまった。

 クマはそんな伊月に構わずのっしりと近づいてくる。
 立ち位置こそ川を挟んでいるが、とても浅く、あのクマがこちらに来れないとは全く思えない。水を飲みに来ただけであってくれ、と祈った物の、川辺で止まらず、ざぷりざぷりとこちらへ向かってくる。

 伊月は覚悟を決め、ゆっくりと立ち上がる。
 視線はクマの胸元と顔の真ん中あたり。この辺を見るとちょうど敵意もなく、弱みも見せない位置らしいとテレビかなんかの知識を実践する。
 ゆっくりと、足を擦るようにして距離を作る物の、それと同じ以上にクマは近づき、伊月の心臓は破裂しそうになる。

 武器が、なんか武器があればいいのに。鈴とか、銃とか。
 けれど、健全な高校生だった伊月は鈴も銃ももっていない。当たり前だ。だれだってこんなことになるなんて思いもしない。

 なにか、と自分の買い物袋の中を考えて、肉の一パックもないことに涙が出そうになる。ケチるべきじゃなかった!! 食卓には肉を並べるべきだったんだよ!
 しかし後悔は常に遅い。
 ねえの馬鹿っ! そんな訴えを神が聞いてくれたのだろうか。伊月はあることに気づいて買い物袋に手を伸ばす。

「余裕、ぶりやがって……」

 クマが伊月の真ん前に立ち、大きく手を広げた瞬間、伊月はクマに向かって手を伸ばし、シュ、シュシュとトイレの洗剤を吹きかける。

 ジェットタイプの洗剤はびゅっと飛んでクマの両目と鼻の辺りにこびりつく。クマは突然の攻撃に頭を大きく振り、手を振り回す。
 見当違いに振り回されるそれから逃れるために背を向け、走り出す。石に躓きそうになったりしながらも全力で駆け、川を外れ、森の中へと駆け込む。

「川なんて見通しが良すぎるんだよっ」

 十分くらい走っただろうか。でたらめに走ったとはいえ、この程度で息の上がってしまう自分が悔しいが、どうやら追ってくる様子はないようだ。

 いったん安全だと思うとどっと疲れが出てしまうが、妖精の言うようにやっぱり森にいるのは危険なのだ。左腕をぽりぽりと掻きつつ、手早く全身を見てみるが、幸い、怪我らしい怪我はない。


 再度北の方向を確かめ、伊月はまた歩き出した。


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